柳生 宗厳の主な足跡
年代 年齢 出来事
享禄二年(1529年) 大和国小柳生城主柳生美作守家厳の長男として誕生
天文十三年(1544年) 十六歳 大和の筒井軍に攻められ降伏。人質として筒井順昭の側近に侍する
筒井順昭の娘と結婚
二二歳
永禄二年(1559年) 松永弾正の大和攻めに加わり、仇敵筒井軍を攻撃する
永禄六年(1563年) 奈良宝蔵院にて上泉信綱と出会い勝負を挑むも敗北し弟子入りする
永禄七年(1564年) 上洛する上泉信綱より『無刀取り』の工夫を言い渡される
永禄八年(1565年) 『無刀取り』の術理を完成させ、信綱より新陰流兵法第二世の道統を継承する
永禄九年(1566年) 上泉信綱より『影目録』四巻の秘伝書を相伝する:
天正元年(1573年) 四五歳 宗厳、柳生の庄へ帰還し、石舟斎と名乗り以後兵法一筋に送る
天正十八年(1585年) 豊臣秀吉の実施した検地によって、隠田を発見され、所領を全て没収される
文禄三年(1594年) 六六歳 黒田長政を通じ、徳川家康より剣技を拝見したいとの申し出を受け、
五男・又右衛門(後の宗矩)を連れ、対面し、剣技を披露する
家康は立会い後、宗厳に神文誓紙を入れ、弟子入りする
この時、宗矩も二五〇石にて家康に仕官する
慶長十年(1605年) 孫・兵介(後の兵庫助利厳)に新陰流の道統を相伝する
慶長十一年(1606年) 七八歳 柳生にて没す
(解説&感想)
 
 上泉信綱とも並んで最も有名な剣士の一人で燦然と歴史に名を刻んだ達人。
後に徳川将軍家指南役にまで登りつめる大流派の太祖。五男・又右衛門(宗矩)が徳川将軍家・指南役に
長男・厳勝の長子・兵介(兵庫助利厳)は尾張藩指南役にと江戸時代初期の剣術界では最大の栄誉に
浴し、全国にその流儀を広める。宗厳が編み出した秘技『無刀取り』は師の上泉信綱さえも驚嘆させた
柳生新陰流の剣理を体現した技である。幼少期より戦乱の渦に翻弄され、敵の人質となったり、所領を
没収されたりと苦渋を味合わされ続けてきた宗厳は最後まで息子や孫達に戦乱のない世のにこそ
活躍する『活人剣』を説いたといわれる。新陰流の道統は尾張に仕官した柳生兵庫助利厳が受け継ぎ
現在も尾張の地に血脈を絶やさずその道統は受け継がれている。
また現在も柳生の地では宗厳が没した四月に毎年『柳生まつり』が開かれ、宗厳の説いた『活人剣』の
教えを受け継ぐ地元柳生の少年剣士たちの演武が披露され、現代にも『活人剣』の教えは息づいている。

柳生家系図)
 左の家系図はとりあえず柳生宗厳
 (石舟斎)から孫の代までのものです。
 この後も現在まで家系は続いておりま
 すので予めご了承下さいませ。
 
(柳生石舟斎宗厳・お勧め本)

 著書名 柳生石舟斎宗厳 戦国を戦い抜いた柳生新陰流の祖
 出版社 PHP研究所
 著  者 中島 道子
 価  格 ¥780
 
 (解説)
 「剣聖」として後世に語り継がれる柳生石舟斎宗厳。しかしその人生は、厳しい苦難の
 道のりであった。筒井順昭、松永久秀、織田信長ら群雄の狭間で翻弄され、豊臣政権
 下では「隠田」を密告されて所領没収。柳生家の繁栄は、五男宗矩が徳川家康の下で
 活躍する「関ヶ原」以後、石舟斎七十過ぎのことであった。戦乱の世に剣の道を一筋に
 貫き、自らの宿命と戦い続けた男の生涯。

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